元祖ストーカー殺人事件
事件概要

1988年(昭和63年)3月5日午後6時頃、東京都品川区のマンションで住民の元女優・歌手で作詞家の神田恵美さん(芸名「江美早苗」当時36歳)の悲鳴が聞こえ事件のあった部屋の上部階の住民が神田さんが血だらけになって倒れているのを発見し警察に通報した。
通報を受けた警視庁大崎署員が到着すると、神田さんは首や胸、腹など全身を22ヶ所を刃物で刺されておりすぐに病院に搬送されたが間も無く死亡した。

殺害された元女優で作詞家の神田恵美さん(芸名江美早苗 当時36歳)

犯人の男は、神田さんの元夫で自称レコードプロデューサーの屋代昭彦(当時50歳)であり神田さんを刺した後、マンションの屋上に上がり「飛び降りて死ぬ」などと叫びながら籠城していたが大崎署員の説得により約5時間後に逮捕された。
屋代は神田さんと離婚した後、しつこく復縁を迫っておりストーカー行為を繰り返した末の犯行であった。
事件当日も、復縁を迫るため部屋を訪れたが部屋のドアを閉められ話を聞いてくれる様子がなかったため、ドア横の窓ガラスを割って部屋に侵入し、用意していた刃渡り20センチの包丁と登山ナイフで神田さんを追い回し、ベランダに追い詰めナイフで全身をメッタ刺しにして殺害した。
逮捕後の取り調べで屋代は、「離婚されて憎しみがつのり、2年前から殺してやろうと思っていた。他に男を作ったのが憎かった。」と供述している。

犯人の自称レコードプロデューサー屋代昭彦(当時50歳)

 

 

背景

被害者の神田さんと屋代は、神田さんが江美早苗「えみ さなえ」名義で芸能界に入りソロ歌手としてデビューする際の担当ディレクターとして出会い次第に距離が縮まった。
しかし当時の屋代は、結婚しており不倫関係からのスタートであった。
ところが二人が交際し始めた後、屋代の妻は自殺している。
そして神田さんは一度、芸能界を引退し故郷のある島根県に帰るが1年後に上京し作詞家「中里 綴 なかさと つづる」名義で曲を提供するようになり次第に注目され活躍するようになる。
屋代との関係も続いており、不倫からスタートし約8年間の交際、同棲生活を経て1981年に結婚する。
長い期間交際や同棲していたにもかかわらず、この結婚生活は4年後の1985年に協議離婚することになる。
離婚の理由は、作詞家として活躍している神田さんに対し屋代は独立し音楽事務所を設立していたが仕事が激減してしまい、すれ違いから夫婦仲が冷え込んでしまったことが原因とされています。
そして離婚後、神田さんは夫婦で暮らしていた家から目と鼻の先にある東京都品川区のマンションに引っ越しをします。
屋代は、神田さんに対して復縁を迫りますが断られており次第に神田さんの行動を監視するようになる。
当時はストーカー規制法もありませんし、ストーカーという存在も認知されていませんでしたが屋代の行動はストーカー行為そのものでした。
その行為は、神田さんの住むマンションの部屋を自宅の屋上より双眼鏡で覗き行動を監視する、神田さんの車を釘でパンクさせ傷をつけるなどの嫌がらせ、頻繁に無言電話をかけるなどのストーカー行為を繰り返していた。
神田さんは、屋代のストーカー行為を周囲に相談し電話番号を変えたり駐車場の場所を変えるなどの対応をしていたが屋代からのストーカー行為は収まらなかった。
そして1988年3月5日、事件は起こってしまう。
事件当日、屋代は復縁を要求するために刃渡り20センチの包丁と登山ナイフを持ち神田さんの部屋を訪れる。
神田さんは、それに応じずドアを開けることさえしなかった。
それに腹を立てた屋代は、玄関ドアの横にある浴室の窓ガラスを割り部屋の中に侵入する。
包丁と登山ナイフを手に持ち、神田さんをベランダに追い詰め全身をメッタ刺しにし全身22ヶ所の傷を負わせ殺害した。
神田さんの悲鳴を聞いた上の階の住民が、ベランダから覗くと血まみれになって倒れている神田さんを発見し警察に通報する。
通報を受けた警視庁大崎署員が駆けつけると神田さんは、全身から血を流し倒れておりすぐに病院に搬送されたが間も無く死亡した。
殺害した屋代は、マンションの屋上に逃走し飛び降りようとするなど警察をけん制するが、事件から5時間後に警察の説得に応じ殺人罪で逮捕される。
その後、警察の取り調べで屋代は、「離婚されて憎しみがつのり2年前から殺す計画をしていた。他の男を作ったのが憎い。」と供述している。